ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37
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ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番は2014年11月22日、京都府立府民ホール”アルティ”で私が師事する♪阿部裕之先生♪が弾かれた曲ですが、古典派の形式で書かれたピアノ協奏曲の集大成とも言える名曲です。
ベートーヴェン(1770~1827)が書いた通し番号のついたピアノ協奏曲は5曲ありますが、この第3番はハイリゲンシュタットの遺書を書いた直後の1803年に初演され1804年に出版された作品です。 そのスケッチは1797年にすでに見られ1800年には草稿が出来あがっていたと思われますが、1803年アン・デア・ウイーン劇場でベートーヴェン自身によって初演されるまでには3年近い年月が置かれており、その時の譜めくりをしたザイフリートによると独奏部はまだほとんど白紙であったと述べております。 出版されたのは翌1804年でウイーンの美術工芸出版社から出版されております。
ところでベートーヴェンが作曲家を志してウイーンへやってきたのは1792年の秋ですが、一般市民にその存在をアピールしたのは1795年3月29日のウイーンのブルク劇場での慈善演奏会でした。 この時弾いたのがピアノ協奏曲第2番です。 1798年プラハで初演されたピアノ協奏曲第1番とともにベートーヴェンのウイーン時代初期(1792~1801)の作品ですが、まだハイドンやモーツァルトの作風と伝統に則した作品でした。
残り3曲はウイーン時代中期(1802~1812)の作品ですが、第4番(1808年ウイーン初演)と第5番(ウイーンでは1812年初めて演奏)は最盛期の作品と言えるのではないかと思います。 特に第5番は1809年ウイーンがオーストリア・フランス戦争の戦場となりフランス軍に占領され貴族たちがウイーンを去るという騒然とした状況の中で書かれますが、その暗さはみじんもないベートーヴェン中期の傑作となっております。
そうした中で第3番はその中間にある過渡期の作品と言えるのではないかと思います。 第3番のスケッチから出版までの1797年から1804年というのはベートーヴェンには激動の時代であり、1802年にはベートーヴェンは自らの聴覚の異常を自覚して弟たちに「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いており、その苦悩の日々の中でこの第3番を何度も書き直し推敲を重ねて完成していったのではないかと思われます。
この第3番はピアノの技巧が一段と高度になっており、オーケストラの響きもすでに伴奏ではなく重厚な響きとなっております。 内容も劇的なドラマティックな内容でベートーヴェン独自の世界を生み出しており、ロマン派を予測させる古典派の最後のピアノ協奏曲とも言えるのではないかと思います。
ミニスコアを掲載致します。
第1楽章
第2楽章
第3楽章
♫ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番♫~クリスチャン・ツイメルマン(ピアノ)、ウイーンフィル・ハーモニー、レナード・バーンスタイン指揮
♫ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番♫~ポリー二
ハイリゲンシュタットの遺書を書いた家