ピアニスト谷真子Official Blog「message」

ピアニスト谷真子公式サイトよりブログ「message」

良くあるご質問

レッスンに来られる生徒さんの親御さんから、

  ・「先生は何歳ぐらいの時にピアノの道へ進むと決められたのですか?」

  ・「(専門コースへ進ませたいのだが)先生は修学旅行の時はピアノの練習はどうされていたんですか?」

  ・「ソルフェージュというものが音楽大学受験にはいるそうだが、見てもらえないか」

  ・「コンクールに入賞したため、行けるのであれば音大へ行かせたい」

などのご相談を良く受けます。

「なぜ音大へ行かれたのですか?」ということもよく聞かれます。

私自身は小さい頃から厳しい先生の元で、レッスンを続けて参りましたので、日々レッスンやレッスンのための準備や練習や学校の勉強に追われ、なぜ音大に行くのかと自問自答する暇のないほど小さい頃や学生時代は練習や勉強に追われていたように思います。

教えるようになり、そのようなご相談を受けることもたびたびありますので、私自身が専門コースへ進んだ経緯などご参考になればと思い自分の経緯を書いてみたいと思います。

 

私が相愛大学名誉教授の故片岡みどり先生のレッスンを受けに、私の母とご紹介頂いたピアニストの方のお母様と私の三人でお宅にお伺いしたのは小学生の時でした。

今でいうオーディションを兼ねたような最初のレッスンに持っていった曲は、第47回全日本学生音楽コンクールで弾いた予選の課題曲のバッハのシンフォニア第7番ホ短調メンデルスゾーンの無言歌集より「紡ぎ唄」、本選の課題曲のモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番K.311全楽章と、普段の宿題として取り組んでいたツェルニー第50番から1曲でした。 その全てを聴かれた後、レッスンをして頂きましたが、レッスンでは本選の課題曲であったモーツァルトのピアノ・ソナタを見て頂きました。

そのレッスンはそれまで先生から教えて頂いたことのないような細かいレッスンでした。 一小節に何時間もかけるような、緻密なレッスンで、ピアノの奏法から脱力、タッチ、音色、楽曲構成など大変興味深いレッスンでした。 その時にピアノという楽器の奥深さを初めて知り、いわゆるおけいこバッグを持って通うピアノ教室での子どものピアノレッスンとは違う本格的な片岡先生のレッスンを受け、ピアノの奥義を深めることに大変興味を持ったことをよく覚えております。

初めてのレッスンの後、直接見てあげるからレッスンにいらっしゃいということでした。(普段のレッスンはお弟子さんに任せて片岡先生のレッスンは月1回のみということもありますが、私の場合は直接片岡先生が見て下さると言う事でした。)

「私のレッスンは難しいから1週間に1回でなくて、10日に一回なのよ。10日できちんと直していらっしゃい」とおっしゃって、10日に1回奈良から兵庫県の宝塚・中山寺のご自宅まで通うこととなりました。 まだ子供でしたからかわいいクマの絵の付いたメモ帳を下さり、それに片岡先生がドイツ語や英語の原語でレッスンを受けた曲目を毎回記録して下さいました。

次のレッスンでは、片岡先生のレッスン室の入り口に片岡先生が描かれたという油絵のお花の絵がかかっており、私が「私は絵を描くのが好きだ」ということをお話したところ、片岡先生が本当は美校(前東京藝術大学美術学部)に行きたかったのよ。母がピアノと決めたから、音校(前東京藝術大学音楽学部)に行ったのよ。絵が好きなのは同じね。」とおっしゃっていました。

その後は、自分では直しているつもりでも、勝手にテンポを揺らさない!や、手を柔らかくするための体操など、厳しいレッスンが続きました。

最初に片岡先生から頂いた曲は片岡先生が2年に1回開いておられた「みどり会」のおさらい会の曲で、べートーヴェンの6つの変奏曲を頂きました。 こちらは片岡先生のご指導を受け宝塚ベガホールで演奏しました。

中学生になるとピアニストの関孝弘先生の元に通うようになりましたが、関先生は片岡先生からご紹介を受けたベーゼンドルファーのプライベートレッスンで受講していたピアニストの方からのご紹介でうかがいました。

やはり初めにオーディションがありましたが、相愛音楽教室のテストで弾くハイドンソナタハ長調50番を持って行きました。 テストに合格し毎週奈良から東京まで新幹線でレッスンに通う事になりました。

その後も私の場合は先生は皆ご紹介でうかがってまいりました。

私はこのように全てご紹介の連続で音楽人生を進んでまいりましたので、振り返ると私の人生はこういう人生だったというのが私の正直な感想です。

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